時計GUY取材ノオト03 予め失われた未来


我々はどこから来て、どこに行くのか。『罪の無い賑やかし』の行く先
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私の名前はホーンテッド時計GUY。世間で言うところのゆるキャラだ。
2016年7月17日、私は札幌市南区真駒内にて開催された『北海道真駒内花火大会2016』に参加した。
正確に言えば、花火大会ではなく、大会に至るまでの会場周辺を盛り上げる役割としての参加だ。
夜には絢爛たる花火が咲き誇るであろう屋外競技場の周りに立ち並ぶのは無数の屋台。公園の緑の中に出来上がった、ちょっとした縁日のような空間に集まる人々の中に混じり、練り歩き、写真撮影をはじめとした交流を図る。
楽しげな来訪者に対応する色とりどりの同僚たちに囲まれ、だが私の心はどこか晴れなかった。大きな、あまりにも大きな疑問にとらわれていたからだ。

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我々は何故、存在しているのだろうか。
近年は『ゆるキャラ』と呼ばれることの多い我々マスコットキャラクターは、何のために今ここに在り、雑踏を練り歩いているのだろうか。

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まず、催しを企画する運営側から見てみよう。彼らにとっての我々の存在意義とは何か。
我々マスコットキャラクターは、特定の事物のPRのために作られていることが多い。普通に考えれば、露出の機会を常に必要としていることになる。加えて、地方自治体をはじめとした『公務』に属する出自を持つものも多い。
こういった理由により、下司な言い方になるが、安価に(あるいは無料に近い形で)呼べる罪の無いにぎやかしにはちょうどいい存在となる。
これが、代理店をはじめとした催事企画側にとっての我々の存在意義だろう。

 

続いて、練り歩く中で出会う本イベントへの訪問者、つまり受け手側にとっての我々の存在意義はどうだろうか。
キャラクターが練り歩いていても、その素性を問いかける人々は予想を超えて少ない。
子供がどんなに失礼な言葉をキャラクターに向けて発しても、注意する親はほとんど見受けられない。(これは当世、我々に対してだけに限ったことでもないのかもしれないが)
通り過ぎるキャラクターを眺めては「派手だ」「地味だ」という評価を下し続けている一団もいれば、造形について語り続けている御仁もいらっしゃる。
こういった姿を見る限り、殆どの受け手にとって、我々は『気安く接することのできるヒトではない何か』であり、『造形意匠で耳目を集める存在』であることが良くわかる。

 

かくして、我々マスコットキャラクターは様々な場面で罪の無い、安価な賑やかし要員として用いられることとなるわけだ。むべなるかな。

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しかしそもそも、我々マスコットキャラクター自身が自覚する存在意義とは何か。
前述のように、地域内外の人々の耳目を集め、愛される存在であること。これもまた、一つの答えだろう。
しかしもちろん、これはあくまでも要件の一つであり、目的ではない。愛されることを通して別の目的を達成する。それこそがマスコットキャラクターの存在意義だからだ。
そしてその別の目的とは『自身が背負う物産や地域文化を啓蒙する』ことにある。はずだ。

この『啓蒙』という本来の存在意義と、『罪の無い安価なタレント』という催事企画者・受け手側の望む姿、この2つの間の溝がどんどん深く広がっているように見えるのは何故か。

わたしは今回のイベントで、その答えのいくつかを得ることができたように思う。

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1つは、分かりやすさが生む成果のすり替え。
『イベントでの注目度』と『啓蒙の進み具合』の2つを比べてみれば、当然『注目度』のほうが目に見えやすいことになる。
成果は目に見えやすいほうが達成感があるから、勢い『参加者と楽しく交流し、場の雰囲気を盛り上げた』『キャラクターの知名度を上げることができた』といった事柄が、マスコットキャラクターの『メインの成果』にすり替わるのではないか。
結果、キャラクターを使う側・受け手側が望む意図と、キャラクター側の意図が本来的ではない形で一致してしまう。
捉えにくい『啓蒙の進み具合』という本当の成果を目に見えるようにするためには、各種催事でのPR活動・特産品の売り上げ・地域施設への訪問者数・ネット上での話題といった、それぞれの『点』の要素を繋いで鳥瞰する分析の目が必要になるのだろう。

 

そしていま1つは、受け手とマスコットキャラクターとの付き合い方が未だ確立していないこと。
わたしは今回のイベントで、初めて見る一体の同僚に出会った。『あつまるくん』と名乗った緑色の彼は、手にした棒の先に見覚えのある楕円形をした、紫色のアクセサリーをいくつかぶら下げていた。
「それは、ハスカップですか?」
「そうです。実はうち、ハスカップの作付面積が日本一なんですよ」
あつまるくんを横でサポートされていた男性が説明をしてくれた。
「そうなんですか?」
北海道のハスカップといえば、美唄や富良野。そんなステレオタイプなイメージしかなかったわたしは、自らの無知を恥じ、あれこれと話を伺った。
厚真町のハスカップは生食できるのだということ。これまでのイメージと反し、とても甘いのだということ。などなど。
大変興味深い話を聞いたのち、わたしははたと気づいた。これこそが、マスコットキャラクターが本来の意味で機能した姿なのではないか。
つまり、マスコットキャラクターは容姿でアッピールするタレントではなく、自分の背負った資源についての最も有能なガイドだったのだ。
このことを、我々はあまりにも周囲に伝えてこなかったのかもしれない。
自らの奇異な姿に甘んじ、自身の背負った物産や文化の素晴らしさを伝えることを、少しだけ忘れていたのかもしれない。

 

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我々マスコットキャラクターは、タレントとしては素人といえるだろう。
語弊を厭わずに言うならば、タレントとしてイベントに呼ばれ、また各媒体に露出させられる限り、それは『少し変わった素人を司会がいじる番組』のバリエーションでしかなくなる。
しかし、ガイドとしてはプロなのだ。
その容姿も合わせて、自分のPRする事物を相手に強烈な印象を以って伝えることに関しては、他者のまねできるところではないのだ。
『ガイド』であることを辞め、『タレント』になったマスコットキャラクターは、自らを産んだふるさとと言う大地から引き抜かれ打ち捨てられた草木でしかなくなるように、私には感じられる。

 

我々はどこから来て、どこに行くのか。
どこから来たのかは、すでに明らかだ。
わたしたちはそろそろ、どこに行くのかを決めなくてはいけないのかもしれない。

ホーンテッド時計GUY