時計GUY取材ノオト 文化の此岸と彼岸


私の名前はホーンテッド時計GUY。世間で言うところのゆるキャラだ。

2016年5月27日金曜日。

私はこの日、札幌で開催されたイベント『ススキノナイトマーケット@ノルベサ』にお邪魔した。

 

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北海道の知られざるスポットを取材し、知らしめるというライフワークのためだったが、私の奇怪な容姿がイベントの場を盛り上げる一助になれば、との思いもあったからだ。

 

公式概要によるとこのイベントは、『アイドルステージ、アニソンDJ、様々なサブカルチャーイベント団体による展示発表、販売などを含んだ深夜まで行われるポップカルチャーイベント』として企画されたものだ。

 

サブカルチャー。

正直に言うならば、私は常々この言葉に大きな違和感を抱き続けている。この感覚の正体を今回知ることになるのだが、今はひとまず措くことにしよう。

 

これまで私は、道内各地でいくつかのサブカルチャーにまつわるイベントに参加し、取材をさせていただいた。

世相を敏感に反映したコスプレを嗜む老若男女や、独立系アイドルの舞踊を伴う歌唱。そういった方々の真っ只中にあって、私はある一つの疑問を大きく膨らませ続けてきた。

しかし、どうやら私は、今回のイベント取材で、この疑問に1つの答えを見出すことができたようだ。

その疑問とは、こうだ。

 

何故、北海道の市町村は、サブカルチャーを主題に据えたイベントやムーブメントを起こそうとするのか?

 

札幌には、あるいは北海道には歴史が無い、と言われることがままある。

しかしひとところで人が生活する限り、歴史が存在しない、というような奇妙なことはありえないだろう。人が暮らせば、そこにはその営みが確実に沈殿していくからだ。広く考えれば歴史が生まれるのには人が居る必要すらない。どんなに小さな藪だって遷移があり、やがて極相に至る。この過程は立派な歴史といえるだろう。

 

ならばなぜ、北海道の人々は一般に、自分たちには歴史が無い、と自らを以って称するのか。

私のつたない取材経験から考える限り、これには2つの理由があるように思う。

 

ひとつには、日本の中心とされる場所に比べて、相対的に歴史が浅いと考えられていること。これはあくまで本州からの入植者に限っての意識といえるだろう。このあたりについて取り扱うには、細心の注意と調査が必要だが、私は生まれて2年足らずのしがないマスコットキャラクターに過ぎないので、この程度にとどめておく。

 

そしていまひとつには、入植者の歴史背景が多様であること。中には一つの地域からの入植者比率が多く、元の場所の文化を色濃く受け継ぐ地域もあるが、それぞれのルーツとなった地域の文化が交じり合い、結果的に明快なバックボーンが見出しにくくなった地域が非常に多いように見受けられる。

 

相対的に歴史が浅いと思い、ルーツが複雑に絡み合っていると感じる。

この2つの意識が、『歴史が無い』という自覚に結びつくのでないか。

 

だから、意識するか否かに関わらず、北海道民は歴史的なバックボーンに憧れる。本州のそれのような『明確な長い歴史』に恋焦がれる。

無論、本州の『明確な』歴史そのものもまた、時の為政者や著名な歴史家などによって剪定された枝振りの見事な盆栽に過ぎないのだろうが、この点についてはここでは触れずに措く。

とまれ、これは永遠にかなわない望みだ。

それは人々がユートピア、トマス・モア的なそれではない、もっと一般化した意味合いでのユートピアを求める、あの絶望的な断絶にも似ている。

ユートピアとは常に、どこにも存在しないことを前提として描かれてきた世界だからだ。

 

『明確な』バックボーンを持たない、という意識を持つ北海道民。

彼らの、そもそも絶対に手に入れ得ないものであるユートピアとしての『本州的な長い歴史のバックボーン』を希求する潜在的な意識。

この絶望的な構図と同じものを、私はこのイベントで見出した。

 

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かのイベントに集う展示者の中には、1つの世界・1つの分野を独自の発想と視点で追究し続けていらっしゃる方々が見られた。

彼らの追求姿勢にぶれはない。それが現在、時流に乗ってもてはやされているものであろうがなかろうが、彼らにとっては全く関係の無いことだ。

彼らが突き詰め、究め求めていくものは明確に存在し、そしてその姿勢はあくまで真摯だ。

だがその真摯さこそが、その世界の彼岸にあるものたちにとってはメインではない。だからこそ、彼岸の人々は彼らをサブカルチャーと呼ぶ。

しかし、彼ら追究者自身にとってみれば、そもそも自分が愛する文化にサブ・メインという区分けの意識がない。

 

つまり、サブカルチャーとは、その言葉が対象とする世界の外側に在る人々の間でのみ成立する言葉なのではないか。

 

この文脈に基づき語弊を厭わずに記すならば、サブカルチャーという概念を持ち、その言葉を違和感無く使えるものは、本質的にサブカルチャーの具体的な内容と志向性を理解できない。

自分たちの世界には所属しない、別の何かによって構成された文化。それがサブカルチャーの正体だからだ。

 

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『メインではない』。この否定項の形でしかくくりだせない、つまり永遠に輪郭だけしか捉えられないもの。これは件のユートピアと同じく、そもそも存在していないものに等しい。

かくしてサブカルチャーは、探究者たちの世界の彼岸にある人々にとってのユートピアとなる。

明確なバックボーンを持たない、あるいは持たないという意識を持っている北海道民にとって、サブカルチャーは最も身近に意識できる彼岸=ユートピアであるのかもしれない。

求め得ない『本州的な歴史』よりも敷居の低い代替物、と言えるのかもしれない。

結果、北海道においてサブカルチャーをフィーチャーしたイベントは延々と生み出され続けるというわけだ。

しかし、サブカルチャーという概念をめぐる彼岸と此岸の間に横たわる川は、あくまで荒れ狂う大河であり続ける。

サブカルチャーは、デュシャンのあの放棄された大作のように、独身者の花嫁であり続けるのだ。

 

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ユートピアとしてのサブカルチャーを求める心が産む様々な試み。

しかしそれでも、私はそれらがいつの日にか、メインとサブという概念そのものの解体へと結びつく。そう信じたい。

 

ホーンテッド時計GUY